最初に…記事が長いので注意!
今日は文化の日です。
今日は午後から、5時間ほど割いて専用地図を作成しました。
少し前から取りかかっていた記事がなんとか一つ出来上がりました。
今回は
「下沼公園前北 本町2丁目の9 消えた戦前エリア」をお送りします。
第1章
いにしえの歴史の証人 戦前家屋
2015.10.20
東松山市本町2丁目9。下沼公園の北、すぐ前の区画。
強烈なオーラを放つ、歴戦の勇姿の戦前物件の集合体。
有無を言わさずの存在感。ちょっと怖いところも魅力であります。
残念ながらここも2017年に解体されてしまいました。
Androidアプリ「東京古い地図2020」の明治期迅速測量図と、
国土地理院の2016年頃の標準地図との合成です。
今回取り上げる物件その物は、いつ建てられたのかは不明ですが、
明治期のこの地図には、それらしきものが既に書かれております。
もし建物が昭和初期に建て替わっていたとしても、筆者の虎の巻、
地元郷土資料のページに載っている明治期の商店群一覧に、
ここの商店の源流と思われる箇所が既に確認できます。
昭和平成と比べても名称名字名前などが大体一致し、2017年解体されるまで、
その頃からの人々の、またはその先祖たちが此に住まわれていた。
200年越え(推定)の年月から途絶えず現役であったという…まさにロマンです。
歴史資料と国土地理院を元に独自に作図した昭和初期の下沼公園付近。
本日2021/11/03(水)午後から、先ほど21:30頃まで数時間掛けて作成。
半月程前から何度も何度も作り直して、ようやくある程度納得できる
完成品をここに仕上げることができました。
ここまで拘る理由…それは筆者の性格上も勿論ありますが、
なにより1960年代以前の、この程度のレベルで建物形状などが判る
ビジュアルの地図が何処にもなく、苦肉の策として自作するのです。
無いのなら自分で時間を掛けて作ってしまえ…これは全ての事柄で常です。
(これにより、いつもとてつもない時間を消費してしまいますが…)
今回は文化の日なので何とか仕上げたかった、その一心です。
さて本題の地図に話を戻します。
昭和10年代から終戦後までの下沼周辺と本町の状態。
国道などができる開発前の様子です。
沈殿沼は、汚水垂れ流しの下沼と繋がっていたと思います。
沈殿沼の意味は、家庭から出た汚物排水を沈殿させている、
そういうことだと推理します。
20220203 聞き取りの上、訂正
近くにお諏訪さまが在ったそうです。しかし状態等は不明。
位置範囲も記載したものは仮のものです。
国土地理院の写真からも姿は確認できませんでした。
下沼北側の一角の復元画像と店舗想像図。
昭和10年代の店舗の並びは手前から
「鈴木金物店」「市野屋菓子店」「杉田豆腐店」。
あくまでも不完全な資料を元にした想像図です。
当時の正確な位置及び看板のデザインがどうだったのかは知る由もありません。
当時の明確な店舗写真は今のところ発見されていません。
国土地理院1961年(昭和36)
過渡期の様子。国道254号線が建設中で、
取り壊されるお諏訪さまがまだあるのかどうなのかも、
この写真からでは判りません。
あと、沈殿沼が埋め立てられています。
1970年代の作図。
戦後の何時からかは不明ですが、鈴木金物店は「鈴木リハツ」となり、
90年代まで営業されました。
市野屋菓子店は交差点の角の建物に移転しています。
沈殿沼埋立地は「割烹藤田」が建っています。
国土地理院1974年(昭和49)。
年代により建物の名義に違いがありますが、長年で大きな変化はありません。
2009年 まだギリギリ古い歴史を見て回れる時代。
建物の北側には田島家がありましたが、90年代に解体され、
駐車場になっています。
右側の古民家は、戦前「富田屋下駄屋」でした。
この建物は昭和36年に建て直したものです。
傾斜地に建てられたため、建物も不安定に。
やたら不許可(?)広告が貼られていますね。
廃屋的な場所にはほぼ必ずこの手の広告が貼られますが、
どういう経緯で貼られるのかは、筆者の長年の謎です。
少なくとも公共である政党のポスターは家主の意向のはずです。
ここは熊谷方面に向かうバスも多く出ているので、
道幅が狭く通るのが怖いです。
杉田豆腐店の遺構。左に建てられたモスグリーンの新築は、
現在は杉田様のお宅ではありませんが、かつての建物の頃は左側と
右側のこの店舗共に杉田様宅でありました。
初代市野屋菓子店の店先。
どのようなお菓子を売っていたのでしょうか…
その先は鈴木リハツです。
建物の北面。
雰囲気がレトロ心を刺激します。
鈴木リハツ店先。
とにかく張り紙が酷い。結構心理的に憤りを感じます。
建物北側の全景。本当に紛れもなく古いものであることを訴えかけます。
これでもかというくらい永い歴史を見せつけられます。
裏側。秋山家(秋山組)のお宅裏側。
田島家跡地から見た戦前エリアの姿。
トタンに青の塗装が絶妙な感じですが、無法者に落書きされた気配があり
それを消した跡が見えます。
下沼ポケットパークとのコラボが絶妙。
懐かしい雰囲気が伝わってきます。
パノラマ画面化。
2016.06.08
理髪店らしい雰囲気が残っているようです。
豆腐店。こちらは更に雰囲気が残っています。
車の往来、このギリギリの臨場感…
店先即道端の極地。
福聚寺の参道。石柱。
前述の合成画面で明治期の地図は、この道の辺りまで沼として書かれています。
精度とズレを考慮し、実際はこの左半分まで沼が来ていたのかもしれません。
下沼戦前エリアの中庭。
実はここにはもう一軒、戦前からの木造が縦長に建っていましたが、
70年代にはすでに空き家となっており、90年代半ばには解体されています。
奥の屋敷型(秋山家)の存在感がすごいです。
この撮影の時には在住されていたのかは判りませんが、これより前の頃、
お庭の手入れをされていました。(その時の写真が行方不明です)
軽く会釈しただけでお話は聞いておりませんでした。
せっかく外に出ておられたのに、気が利かないのは筆者の抜けているところです。
もしかしたら貴重なお話を聞けたかも知れませんがもうそれも叶いません…
秋山家への通路。
杉田家。
こちらの杉田様は、豆腐店の杉田様との関係は分かりません。
図面でも判る通り、この一帯では同一名字別名義の建物が複数混在しています。
市野屋菓子店の店先。
この狭い店先の感じは駄菓子店かもしれません。
第2章
衝撃!戦前エリア一帯が総て解体!!
2018年の様子。すでに前住人は居なくなり、建物も解体されて、
全く別の新しい住宅を建てています。
2017.02.14
2017年の2月の様子。
恐れていたこと、それは解体!
戦前のものが総て解体されてしまいました。
売り出されて、すでに工事に入っています。
そこに在ったかつての物達の姿を、無くなってもなお忘れることは
できません。
表側も基礎工事に入りました。
ここでハッと気づきました。道路拡張のためのセットバック、無いのか?と。
撮影位置側も新築はセットバックしていないので、ここの道路拡張の可能性は
無いということになります。
いつもと同じ平穏を保つ下沼公園。
ついこの前まで中庭のあったところは、
やはり奥側のエントランスになります。
杉田家跡地と石門。
売り出しの様子。
2000万3000万は当たり前、ほぼ4000万です!
歴史が衰退しても、ここは松山の一等地ですから。
秋山家の西側棟があった所、この時点は契約済みになっています。
かつて杉田豆腐店の南棟の処以外すべての更地。
言いたいことを飲み込みます…
下沼ポケットパーク。
前項のトタンが見えていたときの味わいはもう何処にもありません。
福聚寺は歴史の盛衰を見守ります…
おわり。
[記事管理ナンバー 開始202110下旬 / 20211103_1500-2359 / 211104 / 220331]
2021.11.04(木) テキストの追加と編集の完了。
2022.03.31(木) 文面重複の修正等。
今日は文化の日です。
今日は午後から、5時間ほど割いて専用地図を作成しました。
少し前から取りかかっていた記事がなんとか一つ出来上がりました。
今回は
「下沼公園前北 本町2丁目の9 消えた戦前エリア」をお送りします。
第1章
いにしえの歴史の証人 戦前家屋
2015.10.20
東松山市本町2丁目9。下沼公園の北、すぐ前の区画。
強烈なオーラを放つ、歴戦の勇姿の戦前物件の集合体。
有無を言わさずの存在感。ちょっと怖いところも魅力であります。
残念ながらここも2017年に解体されてしまいました。
Androidアプリ「東京古い地図2020」の明治期迅速測量図と、
国土地理院の2016年頃の標準地図との合成です。
今回取り上げる物件その物は、いつ建てられたのかは不明ですが、
明治期のこの地図には、それらしきものが既に書かれております。
もし建物が昭和初期に建て替わっていたとしても、筆者の虎の巻、
地元郷土資料のページに載っている明治期の商店群一覧に、
ここの商店の源流と思われる箇所が既に確認できます。
昭和平成と比べても名称名字名前などが大体一致し、2017年解体されるまで、
その頃からの人々の、またはその先祖たちが此に住まわれていた。
200年越え(推定)の年月から途絶えず現役であったという…まさにロマンです。
歴史資料と国土地理院を元に独自に作図した昭和初期の下沼公園付近。
本日2021/11/03(水)午後から、先ほど21:30頃まで数時間掛けて作成。
半月程前から何度も何度も作り直して、ようやくある程度納得できる
完成品をここに仕上げることができました。
ここまで拘る理由…それは筆者の性格上も勿論ありますが、
なにより1960年代以前の、この程度のレベルで建物形状などが判る
ビジュアルの地図が何処にもなく、苦肉の策として自作するのです。
無いのなら自分で時間を掛けて作ってしまえ…これは全ての事柄で常です。
(これにより、いつもとてつもない時間を消費してしまいますが…)
今回は文化の日なので何とか仕上げたかった、その一心です。
さて本題の地図に話を戻します。
昭和10年代から終戦後までの下沼周辺と本町の状態。
国道などができる開発前の様子です。
沈殿沼の意味は、家庭から出た汚物排水を沈殿させている、
そういうことだと推理します。
20220203 聞き取りの上、訂正
近くにお諏訪さまが在ったそうです。しかし状態等は不明。
位置範囲も記載したものは仮のものです。
国土地理院の写真からも姿は確認できませんでした。
下沼北側の一角の復元画像と店舗想像図。
昭和10年代の店舗の並びは手前から
「鈴木金物店」「市野屋菓子店」「杉田豆腐店」。
あくまでも不完全な資料を元にした想像図です。
当時の正確な位置及び看板のデザインがどうだったのかは知る由もありません。
当時の明確な店舗写真は今のところ発見されていません。
国土地理院1961年(昭和36)
過渡期の様子。国道254号線が建設中で、
取り壊されるお諏訪さまがまだあるのかどうなのかも、
この写真からでは判りません。
あと、沈殿沼が埋め立てられています。
1970年代の作図。
戦後の何時からかは不明ですが、鈴木金物店は「鈴木リハツ」となり、
90年代まで営業されました。
市野屋菓子店は交差点の角の建物に移転しています。
沈殿沼埋立地は「割烹藤田」が建っています。
国土地理院1974年(昭和49)。
年代により建物の名義に違いがありますが、長年で大きな変化はありません。
2009年 まだギリギリ古い歴史を見て回れる時代。
建物の北側には田島家がありましたが、90年代に解体され、
駐車場になっています。
右側の古民家は、戦前「富田屋下駄屋」でした。
この建物は昭和36年に建て直したものです。
傾斜地に建てられたため、建物も不安定に。
やたら不許可(?)広告が貼られていますね。
廃屋的な場所にはほぼ必ずこの手の広告が貼られますが、
どういう経緯で貼られるのかは、筆者の長年の謎です。
少なくとも公共である政党のポスターは家主の意向のはずです。
ここは熊谷方面に向かうバスも多く出ているので、
道幅が狭く通るのが怖いです。
杉田豆腐店の遺構。左に建てられたモスグリーンの新築は、
現在は杉田様のお宅ではありませんが、かつての建物の頃は左側と
右側のこの店舗共に杉田様宅でありました。
初代市野屋菓子店の店先。
どのようなお菓子を売っていたのでしょうか…
その先は鈴木リハツです。
建物の北面。
雰囲気がレトロ心を刺激します。
鈴木リハツ店先。
とにかく張り紙が酷い。結構心理的に憤りを感じます。
建物北側の全景。本当に紛れもなく古いものであることを訴えかけます。
これでもかというくらい永い歴史を見せつけられます。
裏側。秋山家(秋山組)のお宅裏側。
田島家跡地から見た戦前エリアの姿。
トタンに青の塗装が絶妙な感じですが、無法者に落書きされた気配があり
それを消した跡が見えます。
下沼ポケットパークとのコラボが絶妙。
懐かしい雰囲気が伝わってきます。
パノラマ画面化。
2016.06.08
理髪店らしい雰囲気が残っているようです。
豆腐店。こちらは更に雰囲気が残っています。
車の往来、このギリギリの臨場感…
店先即道端の極地。
福聚寺の参道。石柱。
前述の合成画面で明治期の地図は、この道の辺りまで沼として書かれています。
精度とズレを考慮し、実際はこの左半分まで沼が来ていたのかもしれません。
下沼戦前エリアの中庭。
実はここにはもう一軒、戦前からの木造が縦長に建っていましたが、
70年代にはすでに空き家となっており、90年代半ばには解体されています。
奥の屋敷型(秋山家)の存在感がすごいです。
この撮影の時には在住されていたのかは判りませんが、これより前の頃、
お庭の手入れをされていました。(その時の写真が行方不明です)
軽く会釈しただけでお話は聞いておりませんでした。
せっかく外に出ておられたのに、気が利かないのは筆者の抜けているところです。
もしかしたら貴重なお話を聞けたかも知れませんがもうそれも叶いません…
秋山家への通路。
杉田家。
こちらの杉田様は、豆腐店の杉田様との関係は分かりません。
図面でも判る通り、この一帯では同一名字別名義の建物が複数混在しています。
市野屋菓子店の店先。
この狭い店先の感じは駄菓子店かもしれません。
第2章
衝撃!戦前エリア一帯が総て解体!!
2018年の様子。すでに前住人は居なくなり、建物も解体されて、
全く別の新しい住宅を建てています。
2017.02.14
2017年の2月の様子。
恐れていたこと、それは解体!
戦前のものが総て解体されてしまいました。
売り出されて、すでに工事に入っています。
そこに在ったかつての物達の姿を、無くなってもなお忘れることは
できません。
表側も基礎工事に入りました。
ここでハッと気づきました。道路拡張のためのセットバック、無いのか?と。
撮影位置側も新築はセットバックしていないので、ここの道路拡張の可能性は
無いということになります。
いつもと同じ平穏を保つ下沼公園。
ついこの前まで中庭のあったところは、
やはり奥側のエントランスになります。
杉田家跡地と石門。
売り出しの様子。
2000万3000万は当たり前、ほぼ4000万です!
歴史が衰退しても、ここは松山の一等地ですから。
秋山家の西側棟があった所、この時点は契約済みになっています。
かつて杉田豆腐店の南棟の処以外すべての更地。
言いたいことを飲み込みます…
下沼ポケットパーク。
前項のトタンが見えていたときの味わいはもう何処にもありません。
福聚寺は歴史の盛衰を見守ります…
おわり。
[記事管理ナンバー 開始202110下旬 / 20211103_1500-2359 / 211104 / 220331]
2021.11.04(木) テキストの追加と編集の完了。
2022.03.31(木) 文面重複の修正等。
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