ここのところミスが多く、今回提示する物も正しいのかどうなのかは判りません。
あらかじめ申し上げておきます。


市役所公式「フォト歴」に紹介されている「材木町・中央通り(昭和30年頃)」を見ていて、
前々からどうにも気になる部分があります。




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この写真には「原留」が左下に写っており、説明では先の屋根は「福聚寺」で、
四角い建物は「電報電話局」とあります。

しかし福聚寺と電報電話局との位置関係での辻褄が合わないことに、
モヤモヤしたものが拭えませんでした。




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第八十五銀行跡の文書庫。




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このカラー画面はあくまでも筆者が各種地図を元に推測してみた結果です。


筆者としてはどうしても、先に見える四角い建物は「文書庫」であると、
初めて見たときから感じておりました。

そして原留運送の位置。
郵便局敷地のカーブの道が、材木町一番街に出る路地に繋がって、その途中の
東西の直線通路と交差する処にこの原留はありました。

あくまでもそれを元に割り出すと、このカラー化した画面の解説となります。
この原留の大型トラックは、かつての路地のカーブに沿って斜めに停めてあると
見ています。

その右端に少女の姿が見えますが、その立っている処が路地であるように見えます。
「平賀家」と「原留」との間の隙間が一番街に出る路地で、ここに繋がります。

そして木造の大きな、あまりにもボロボロに見えるバラックが、戦前から在る
「材木町協同製材所」だと推理しています。
もしこれが正しければ、現時点で確認できる唯一の製材所の姿だと思われます。
言うまでもなく、ここが1970年聖ルカ幼稚園の新園舎が建てられる場所です。

手前下に見える屋根は、おそらく戦前から建っていた家屋で、これに関する事は
何処にも見当たりませんが、郵便局のすぐ東裏に在った木造の屋根にそっくりです。
よってこの写真は郵便局建物の中から撮ったものではないかと見ています。




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Googleによる現在位置の確認。




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再掲載。旧まるひろへの路地。
左にある水色の住宅の辺りが「原留運輸」で、80~90年代も健在でありましたが、
2003年の地図からは消えています。




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再掲載。
カラー化した東西に通った路地の東先に見える古い店舗群の屋根は中屋鋸店のはずです。
ただし「大金食堂」と記した建物の位置関係は間違っているかもしれません。
(食堂があったのは、画面左駐車場になっている処)




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戦前(昭和15年前後)
原留の下にある敷地が後の郵便局東裏で、木造の建物(管轄不明)が昭和40年代に解体された
あとは、駐車場(管轄不明)になっています。(昭和49年でも舗装されたものが伺える)

昭和30年代に原留トラックが留まっていた事から、その頃はこの端の辺りを駐車場として
使っていたと推測。




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昭和36年の画面にて。
フォト歴の説明での位置関係(青)と、筆者推理の位置関係(赤)。




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作成地図による、筆者の各位置推理図解。
前項で記述し忘れましたが、「材木町協同製材所」の建て位置状態は、
聖ルカの位置に戦前建てられていた物、郵便局寄りに建てられた戦後の物との二つ。
いずれも横長のバラック状の作業場です。これらが、同時に存在していた時期が在ったのか
または無かったのかは、その時期の写真がありませんので全くわかりません。




推理してみたものの、間違いないという自信はありません。
今回の記事でお気づきになったことがございましたら、遠慮なくご意見をお寄せください。








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