読者様からのまるひろ界隈の質問があり、過去3篇に渡って「まるひろ」の変遷と
その周辺について、もう少し分かりやすく可視化してまとめようと思いましたので、
前回までの内容と、現時点で判明している点を追加画面を中心にお送りします。
…果たして分かりやすく出来るかは、かなり危ういのですが、やっていきます。
とりあえずテンプレート。関連された記事のリンクを表示します。
[過去の関連記事]
まるひろ百貨店建設と聖ルカ幼稚園の移転 1970年
2022-07-16 19:40:23
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/15685791.html
まるひろ東松山店の移転の経緯 続編
2022-07-23 12:00:00
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/15775958.html
まるひろ東松山店の移転の変遷 資料による不可解と「移動販売車」とは?(続編2)
2022-08-07 02:25:20
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/16016672.html
【長編】まるひろ東松山店 増築の変遷「真実が見えてきたかも?」(続編3)
2022-09-12 21:00:33
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/16672078.htm
前回にも言っていたのですが、ここ最近何故か検索で来られる方々は
2番目の「まるひろ移転の経緯 続編」のみに集中し、それ以外の関連された記事は
上のようにリンクを付けても全く読まれることはありません。
やはり、しっかり読んで下さる方は、ほぼ常連様であります。
此所にたまたま検索で来られた方々は、来てみたものの、ページをさっと見て、
調べたい要素がないと見ると即座に離脱します。これは筆者の記事に来訪のユーザーが
求めていた情報は無かったという証拠です。
日に20カウント程度しか無い弱小ブログなので、仕方の無いこととして飲み込みます。
カウンターを気にすると、また某SNSやランキングなどのように、ロクなことがありません。
…と言っている先から編集用画面上のカウンターが「0」なのをさっきから気にしています。。
筆者としては懲りずに、この時間の流れによって失われた真実の追及を辞することはありません。
広範囲からの歴史は何処の研究家でも行っていることで、それはあくまでテーマ全体を研究する
大がかりなものです。
筆者には、その手法が巧くいかないというのは分かりきっておりますが故に、
細部、詳細、ピンポイントからの拡張探索。この手法でいくしかありません。
巨大な岩山をイッキに砕くのは不可能ならば、当方は「一点集中掘削突破」の法。
今後もこのスタンスでいきますので、数字や結果などに構う必要はありません。
岩を地道に手彫りしていった伝説の岩窟ホテル・高橋峯吉様を目指します。
材木町広域地図作成版
現在のマミーマートである「八百清」および「まるひろ東松山店」の店舗変遷を
新規書き起こします。
緑が「マミーマート」、青が「まるひろ」。
「東松山2大店舗発祥早見表」
2大商店の位置関係と歴史変遷図。主体は昭和30年代から40年代。
掲載年号は暫定、不確定を含む。
参考地図:「ゼンリン住宅地図 東松山」1970、1975、1977、1979、1980、1981、1983他
〔テキスト書き出し〕
マミーマート名称変遷
戦前~昭和30年代前半「八百清」(本町)
昭和30年代中盤「スーパーマーケット ヤオセイ」(本町)
昭和36年以降 「ヤオセースーパー局前店」(松葉町)
昭和48年から「マミーマート」(材木町)
まるひろ東松山店 変遷
昭和29年 まるひろ東松山店(本町四つ角)
昭和33年頃 まるひろ(第2店舗・材木町)
昭和45年 まるひろ東松山店 新店舗(材木町現在地)
Googleによる現在視点。
材木町商店街の「まるひろ百貨店」とは?
今回質問のあった昭和30年代の「まるひろ材木町店」(暫定名称)。
以前、筆者は本町の店舗をこちらの材木町店舗と対にして在るものだと勘違いしており、
改めてこの写真にて、それは誤りであると認識できます。
地図での通り、戦前から営業されている「比企文化社」の隣に昭和30年代の中頃に完成。
資料によってはここをして、昭和33年という記載が伺えます。
横田先生の歴史書「東松山の今昔あれこれ 第2号」4ページ29項では、
「昭和30年代 しまむら・まるひろ 店は材木町に在り」との記載。
再掲載、まるひろ三店。1の本町店舗の存在を示す資料もほとんど無く、
2の材木町の店舗に関してもそれを明確にする記載は無く、さらに3の
現在店舗に関してすら詳細が無いというのが、現時点での資料状況です。
昭和45年 まるひろ「東松山ビル」完成
写真に至っては、このブログで取り上げている以上の物は現時点では無論有りません。
ですから地図記載だけを参考に、このような画面を作らざるをえない訳ですが、
何も提示しないよりはマシかと思います。
普通で考えれば創業と開店、変遷などは要所要所で写真が存在していて当然の筈。
最低でもイラストと地図とテキストくらいは有って然るべきです。
単純に公式が資料の公開をしないのか、素で本当にちゃんとした資料が無いのか、
いづれかです。
詳細結果は、あくまでもこのブログ内での追及により暫定的に判明しているに過ぎません。
拡大画面。今回の新判明。
店舗内部に「東松山材木町店」とも取れる文字の確認。
これとて、この店舗を単体明確に撮られた写真があれば何の問題もないのですが、
いま確認できるのはこれが精一杯。古来より在住、今回この件について質問を
下さった小高様の疑問も頷けるところです。
「材木町一番街」とは?
フォト歴の市政10周年写真拡大。
質問事項「材木町一番街」とは何時から?
現時点で明確な答えは出ませんが、この昭和39年の写真で名称は存在しています。
昭和36年とする写真でも確認していたと記憶していますが、やはり発祥年度は
わかりません。
市役所公式「フォト歴」の記述
指摘のあった「一番街丸広前」という記載の誤り。昭和34年、画面下半分。
質問の回答では「なぜ誤記が起きたのかは不明」としましたが、おそらく材木町の方に
完成した「第二店舗」との混同が考えられます。しかもこの写真をして本町四ツ角を
認識しておりません。かくいう筆者も、読者様から「本町にあった最初のまるひろ」
との指摘以前は、ここをして誤記の通り、材木町の店舗であると誤認しておりました。
改めて、この写真のまるひろは「本町四ツ角の店舗」であります。
上半分、「本町四ツ角」の記述に誤りは多分ありません。
しかも八百清についての記載は、かなり核心に迫る内容であり、下半分の誤記との
ギャップを強く感じます。
しかしこの写真が昭和30年代の何年なのかは不明のままです。
「スーパーマーケット ヤオセイ」との看板になっていたのは、ここの記述にもある
昭和37年とする写真にて確認しておりますので、名称変更はその少し前と思われます。
ヤオセースーパー局前店の姿
画面クリンナップ。
「生鮮市場TOP」「マミーマート」合同の創業記念ポスター。
2022.09.25 読者様から掲示されたとの初報告。
今回の創業記念ポスターから抽出した「ヤオセースーパー」のシンボルマーク。
(前回の物に上の突きだし部分修正)
前出のフォト歴にも姿がある「八百清」の看板の中央には、これの前に使われていた
別のマークが付いています。この丸に記号的なものが他の写真から見えましたが、
写真が不鮮明のため再現できません。
このヤオセースーパーの意匠もいつ制定されたのかは判りません。
そして上に載せたヤオセースーパー局前店の写真は昭和30年代ではなく、41年頃と
見ても違和感がありません。
明治35年。
「青物商 岩崎清三郎」との記載。これ以前江戸期の時代はどうだったのか解りません。
ここが後の「八百清」「ヤオセイ」であり、まさに本町四ツ角前が、マミーマートの
発祥の地であります。
八百清の「清」はこの名前から取ったものであると判ります。
(旧漢字が搭載されておりませんので、現在の漢字に直して記載しています)
「昭和34年創業」との題目は、業態がスーパーマーケットになってからの事を示している
と判断します。
(追記)
マミーマート
履歴表示出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沿革
創業者である岩崎家の初代が武蔵国・松山城御用商人として
商品を納入したのがはじまりとされている。
1958年(昭和33年) 埼玉県東松山市にスーパー「八百清」創業。
1965年(昭和40年)10月11日:岩崎商事株式会社設立[1]。
スーパー「マミーマート」としてチェーン展開開始。
検証が不十分などの問題点があることを踏まえた上で、参考まで。
記事管理ナンバー[20221009_1200-2030 / 221010_0500,0545-0610]
2022.10.10(月) 17:00 ウィキペディアの追記。
その周辺について、もう少し分かりやすく可視化してまとめようと思いましたので、
前回までの内容と、現時点で判明している点を追加画面を中心にお送りします。
…果たして分かりやすく出来るかは、かなり危ういのですが、やっていきます。
とりあえずテンプレート。関連された記事のリンクを表示します。
[過去の関連記事]
まるひろ百貨店建設と聖ルカ幼稚園の移転 1970年
2022-07-16 19:40:23
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/15685791.html
まるひろ東松山店の移転の経緯 続編
2022-07-23 12:00:00
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/15775958.html
まるひろ東松山店の移転の変遷 資料による不可解と「移動販売車」とは?(続編2)
2022-08-07 02:25:20
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/16016672.html
【長編】まるひろ東松山店 増築の変遷「真実が見えてきたかも?」(続編3)
2022-09-12 21:00:33
https://oldtaste.livedoor.blog/archives/16672078.htm
前回にも言っていたのですが、ここ最近何故か検索で来られる方々は
2番目の「まるひろ移転の経緯 続編」のみに集中し、それ以外の関連された記事は
上のようにリンクを付けても全く読まれることはありません。
やはり、しっかり読んで下さる方は、ほぼ常連様であります。
此所にたまたま検索で来られた方々は、来てみたものの、ページをさっと見て、
調べたい要素がないと見ると即座に離脱します。これは筆者の記事に来訪のユーザーが
求めていた情報は無かったという証拠です。
日に20カウント程度しか無い弱小ブログなので、仕方の無いこととして飲み込みます。
カウンターを気にすると、また某SNSやランキングなどのように、ロクなことがありません。
…と言っている先から編集用画面上のカウンターが「0」なのをさっきから気にしています。。
筆者としては懲りずに、この時間の流れによって失われた真実の追及を辞することはありません。
広範囲からの歴史は何処の研究家でも行っていることで、それはあくまでテーマ全体を研究する
大がかりなものです。
筆者には、その手法が巧くいかないというのは分かりきっておりますが故に、
細部、詳細、ピンポイントからの拡張探索。この手法でいくしかありません。
巨大な岩山をイッキに砕くのは不可能ならば、当方は「一点集中掘削突破」の法。
今後もこのスタンスでいきますので、数字や結果などに構う必要はありません。
岩を地道に手彫りしていった伝説の岩窟ホテル・高橋峯吉様を目指します。
材木町広域地図作成版
現在のマミーマートである「八百清」および「まるひろ東松山店」の店舗変遷を
新規書き起こします。
緑が「マミーマート」、青が「まるひろ」。
「東松山2大店舗発祥早見表」
2大商店の位置関係と歴史変遷図。主体は昭和30年代から40年代。
掲載年号は暫定、不確定を含む。
参考地図:「ゼンリン住宅地図 東松山」1970、1975、1977、1979、1980、1981、1983他
〔テキスト書き出し〕
マミーマート名称変遷
戦前~昭和30年代前半「八百清」(本町)
昭和30年代中盤「スーパーマーケット ヤオセイ」(本町)
昭和36年以降 「ヤオセースーパー局前店」(松葉町)
昭和48年から「マミーマート」(材木町)
まるひろ東松山店 変遷
昭和29年 まるひろ東松山店(本町四つ角)
昭和33年頃 まるひろ(第2店舗・材木町)
昭和45年 まるひろ東松山店 新店舗(材木町現在地)
Googleによる現在視点。
材木町商店街の「まるひろ百貨店」とは?
今回質問のあった昭和30年代の「まるひろ材木町店」(暫定名称)。
以前、筆者は本町の店舗をこちらの材木町店舗と対にして在るものだと勘違いしており、
改めてこの写真にて、それは誤りであると認識できます。
地図での通り、戦前から営業されている「比企文化社」の隣に昭和30年代の中頃に完成。
資料によってはここをして、昭和33年という記載が伺えます。
横田先生の歴史書「東松山の今昔あれこれ 第2号」4ページ29項では、
「昭和30年代 しまむら・まるひろ 店は材木町に在り」との記載。
再掲載、まるひろ三店。1の本町店舗の存在を示す資料もほとんど無く、
2の材木町の店舗に関してもそれを明確にする記載は無く、さらに3の
現在店舗に関してすら詳細が無いというのが、現時点での資料状況です。
昭和45年 まるひろ「東松山ビル」完成
写真に至っては、このブログで取り上げている以上の物は現時点では無論有りません。
ですから地図記載だけを参考に、このような画面を作らざるをえない訳ですが、
何も提示しないよりはマシかと思います。
普通で考えれば創業と開店、変遷などは要所要所で写真が存在していて当然の筈。
最低でもイラストと地図とテキストくらいは有って然るべきです。
単純に公式が資料の公開をしないのか、素で本当にちゃんとした資料が無いのか、
いづれかです。
詳細結果は、あくまでもこのブログ内での追及により暫定的に判明しているに過ぎません。
拡大画面。今回の新判明。
店舗内部に「東松山材木町店」とも取れる文字の確認。
これとて、この店舗を単体明確に撮られた写真があれば何の問題もないのですが、
いま確認できるのはこれが精一杯。古来より在住、今回この件について質問を
下さった小高様の疑問も頷けるところです。
「材木町一番街」とは?
フォト歴の市政10周年写真拡大。
質問事項「材木町一番街」とは何時から?
現時点で明確な答えは出ませんが、この昭和39年の写真で名称は存在しています。
昭和36年とする写真でも確認していたと記憶していますが、やはり発祥年度は
わかりません。
市役所公式「フォト歴」の記述
指摘のあった「一番街丸広前」という記載の誤り。昭和34年、画面下半分。
質問の回答では「なぜ誤記が起きたのかは不明」としましたが、おそらく材木町の方に
完成した「第二店舗」との混同が考えられます。しかもこの写真をして本町四ツ角を
認識しておりません。かくいう筆者も、読者様から「本町にあった最初のまるひろ」
との指摘以前は、ここをして誤記の通り、材木町の店舗であると誤認しておりました。
改めて、この写真のまるひろは「本町四ツ角の店舗」であります。
上半分、「本町四ツ角」の記述に誤りは多分ありません。
しかも八百清についての記載は、かなり核心に迫る内容であり、下半分の誤記との
ギャップを強く感じます。
しかしこの写真が昭和30年代の何年なのかは不明のままです。
「スーパーマーケット ヤオセイ」との看板になっていたのは、ここの記述にもある
昭和37年とする写真にて確認しておりますので、名称変更はその少し前と思われます。
ヤオセースーパー局前店の姿
画面クリンナップ。
「生鮮市場TOP」「マミーマート」合同の創業記念ポスター。
2022.09.25 読者様から掲示されたとの初報告。
今回の創業記念ポスターから抽出した「ヤオセースーパー」のシンボルマーク。
(前回の物に上の突きだし部分修正)
前出のフォト歴にも姿がある「八百清」の看板の中央には、これの前に使われていた
別のマークが付いています。この丸に記号的なものが他の写真から見えましたが、
写真が不鮮明のため再現できません。
このヤオセースーパーの意匠もいつ制定されたのかは判りません。
そして上に載せたヤオセースーパー局前店の写真は昭和30年代ではなく、41年頃と
見ても違和感がありません。
明治35年。
「青物商 岩崎清三郎」との記載。これ以前江戸期の時代はどうだったのか解りません。
ここが後の「八百清」「ヤオセイ」であり、まさに本町四ツ角前が、マミーマートの
発祥の地であります。
八百清の「清」はこの名前から取ったものであると判ります。
(旧漢字が搭載されておりませんので、現在の漢字に直して記載しています)
「昭和34年創業」との題目は、業態がスーパーマーケットになってからの事を示している
と判断します。
(追記)
マミーマート
履歴表示出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沿革
創業者である岩崎家の初代が武蔵国・松山城御用商人として
商品を納入したのがはじまりとされている。
1958年(昭和33年) 埼玉県東松山市にスーパー「八百清」創業。
1965年(昭和40年)10月11日:岩崎商事株式会社設立[1]。
スーパー「マミーマート」としてチェーン展開開始。
検証が不十分などの問題点があることを踏まえた上で、参考まで。
記事管理ナンバー[20221009_1200-2030 / 221010_0500,0545-0610]
2022.10.10(月) 17:00 ウィキペディアの追記。
コメント
コメント一覧
私は既にシャターが閉まっている八百清を覚えています。市内には昭和50年代「まるたけ」(自分の記憶ではぼたん通りにありました。)はじめいくつかのスーパーマーケットがあったと思います。
ただマミーマートはもともと本町にあった八百屋が発祥とは知りませんでした。昨日もマミーマート沢口点で夕食材を買いました。沢口店の前(東側)にある田島煎餅店もかつては材木町にありました。今だに手焼きで煎餅を焼いており、米粉の香りがする美味しい煎餅です。次回牡丹文化堂にいらっしゃる日をお知らせいただければ煎餅買っておきますね。
本町の「八百清」及び「スーパーマーケットヤオセイ」の写真と概要は、
ある程度把握していましたが、明治期の名前を把握していませんでした。
大きなストーリーになっていくとはあまり考えておりませんでした。
マミーマート公式ページにも詳しい変遷は書いていません。
昭和34年八百清開店と、その時の八百清店舗の写真のみです。
たしか昭和48年のせきなかビル内マミーマートについても載っていませんでした。
かなり以前に他の本かテキストで、戦前からの存在を知りました。
横田先生の本にも本町には「八百清」で載っています。
ヤオセーの呼び方ですが、
住宅地図にも「ヤオセスーパー」との記載がいくつか見られますので、
おそらく看板が変わらなくても呼び名が「ヤオセ」も正しいのではと思います。
本町のヤオセーがまだ姿を残しシャッターのしまっていた頃というのは、
おそらく1980年代初頭かと思われます。1983年まではスーパーの記載ががあり、
1984年の地図が無いので確定はできませんが、そのヤオセーの店舗を転用して、
「陣屋豆腐」になっていたのが1985年(昭和60年)の地図で確認しました。
局前店の方も確認しましたが昭和50年までしか記載がありませんので、
その頃に無くなってしまったと思われます。
スーパー丸武、ぼたん通りの公園隣にあったのは写真でよくみます。
ビルに建て替わって平成まであったのですね。かつて高坂には店舗と本社がありました。
田島せんべい屋…横田先生の地図で材木町に在ることだけは知っています。
いまも移転して営業されていたのですね。
もう無くなってしまったと思っておりましたので驚いております。
機会がありましたら行ってみたいと思います。
かつての話が聞けるかもとの期待もあります。
次にまちカフェへ行けるようでしたら前日くらいにお電話をいたします。
お気遣いありがとうございます。
ありがとうございます。
今度お店に行ってみようと思います。
境内の無数の名前が前々から気になっていました。
いつも用事のついでに寄るくらいでじっくり見る機会がなかったので、
今度は良く見てきます。松山城にも関わりのある方とはすごい情報です。
お気遣いありがとうございます!伺える際にはお電話いたします。
今月は常連の方ともお会いする機会ができ、とても楽しみです。
何故か隣にローソンが開店
博石堂は?
比企文化社は1番街→シルピア前→完全に無くなる
なにわや のたい焼きは養殖ではなく1枚ずつ焼いて焦げがアクセント
今は麻布十番まで行かないと食べられない(泣)
90年代までの活気はもう戻って来ることは無いのでしょう。
せめてコロナ前までには戻って欲しいと思いますが…。
auの処には「野村和三郎商店」と「深沢油屋」(松山大火以後行方不明)、
そして「八百清」があって博石堂→今もローソンの奥の方にひっそり有ります。
角の丸山モータースも無くなり…昭和以前を忍ぶものは蔵造り以外ほぼありません。
比企文化社がシルピアに行って無くなったのは先頃読者様のコメントで知りました。
なにわ屋は麻布十番にあるのですか、経緯が気になります。