先日、久しぶりに高坂方面に行く用事があり、
通りすがりで様子を伺ったところ風景に異変が…

写真の整理が出来ていないこともあり、
本来後に予定にしていた記事を急遽に書くことにしました。

この度取り上げるお店は、高坂東口にあったそば屋さん、
そば・うどんの稲廼家(いねのや)です。

高坂駅入口交差点の北東角、すこしだけ北に進んだ場所です。

高坂駅入口交差点の処で真新しい更地が見え、
ハッと気付き「稲廼家さん、解体されてしまった!」
とショックを受けてしまったのです。

開発が終わりを迎える前にお店自体は閉店してしまい、
かつての姿のまま、しばらく時を止めている感じでした。
ずっと気がかりではありました。
しかし遂にその姿も消えてしまいました。

本当ならもう少し違う写真、気に入った写真もあるはずで、
テキストと言えるものもほとんど無いのですが、
取り急ぎすぐに手元に出せるものだけで構成いたします。
資料の追加、追記修正は行う予定です。

現時点でお店の写真が少ないので、周辺の建物を主に記載します。

店舗の紹介は食べログ等ほかのサイトにはまだ載っているので、
そちらをご覧ください。


06_20150304141231
2015.03.04

そば・うどん  稲廼家。1990年に開店。
レトロな作り、1970年代前期風ですが、
お店が健在な頃に旦那さんとの話で、
1990年に開店と判りました。意外と新しかったです。

このお店が建つ前は農地でした。





06_20150304141040_IMG_20210623_104746
看板が横になっていますが、
道路拡張のために一時的に外されています。

花火大会開催の時は何処も人と車で溢れていましたが、
お店の駐車場もいつも満車でした。
最後の記憶は僅か数年前ですが、懐かしい記憶です。

2018年以降筆者は高坂からは離れてしまったので、
あれから東松山花火大会を見ていません。

そして今、コロナの情勢であり終息する感じもありません。
あのような光景が復活するとはとても考えられません。





06_20150304141249
書くに当たって検索をしてみましたところ、
同一名称店舗が各地に多い事がわかりました。
「いなのや」と読むお店もあるようですが、
こちらの読みは「いねのや」です。

また市内に「第二稲廼家」というお店もありますが、
このお店とは無関係のようです。

普段は、どちらかというと常連さんがよく訪れていました。
座敷席はいつも近所の方々が一杯やっている光景。
生活感を実感するシチュエーションの一つです。






06_20150304141211-01
向かって右側の路地。
この右手の駐車場には2010年頃まで
鉄筋4階建てのビルがありました。






06_20150304141317-01

06_20150903095726
東側、店舗勝手口。

筆者はどこの蕎麦屋さんに行ってもカレーそばが
メニューにあれば必ず食べます。
自分にとって蕎麦屋のステイタスはカレーそばにあり!
そう思っています。






06_20150304141424
のどかな風景に溶け込む稲廼家。
この雰囲気、これぞまさに旧高坂の魅力の一つです。
開発後の現在、完全に失ってしまったものです。

畑の先、駐車場の所に近隣唯一の3階建てビルがあったときの風景は、
この田園風景広がる旧高坂において異質であり、
そのイメージを今一つ想像できませんが、
お店は大きく影に被っていたと思います。

それはそれでインパクトのある感じだったのかも知れませんが、
無くなってしまった今では知る由もありません。






06_201503041413_IMG_20210623_115329~01
店舗裏手、謎の空白があります。
ここは元々お店の駐車場だったようですが、
ここが区画整理後の道になることは後に判ります。

この家は稲廼家の母屋です。
ここ一列は母屋とアパートなどが並びます。

年号は判りませんが、なんと戦前からこの地この位置に
既に母屋は存在していました。

2016年頃でしょうか、旦那さんのご高齢のお母様が
散歩に出るというので、何か古いお話でも聞けたらと
御一緒に近所を歩きました。

近所を巡りながら、古い話を沢山聞かせてもらえたので
大変嬉しかった思い出があります。






06_201503041414_IMG_20210621_224910-01
2015.03.04

母屋の横、ここは敷地の中にあるアパート群です。
ここも建て変わってはいるものの、戦前から建物が存在していたようです。

おそらくここに写るものは、その形、状態から、
昭和30年代後期頃に建てられたと推測できます。

一見してアパートとは全く感じさせない容貌です。
複合的に大中小様々な建物がひしめいていますが、絶妙なまとまりがあり、
格好良い感じです。

段々になって連なる姿はメカニカルで迷路的、とてもわくわくします。

既にアパートとしての役目は終えて、納屋や車庫として使っているようです。






06_20150903101207
06_20150903101233
06_20150903101211_IMG_20210623_095317~01
2015.09.03

道路拡張の工事が開始され、母屋の庭を削られ、
前方にあった文化住宅型一軒家やトイレなど、せっかくの基地的な風貌が半減しています。

前方にあった建物がなくなって、後方の建物が分かりやすくなりました。

後方の建築、改めて魅力ある作りと姿を感じますが、残念ながら、
現在はこれらも全て姿を消しました。





06_20150903095818
母屋の裏側。
おそらく昭和40年代中期に建て替えられたかと思われます。





06_20150903095744
06_20150903100015
06_20150903100027
06_20150903095929
”06_20150903101343"
2015.09.03

稲廼家裏手を含む周辺の土地、区画整理工事の前段階として、
遺跡調査が行われています。これは建物が建った経緯がなく、
自然のまま現存していた場所全域で行われました。





06_20150903101018
06_20150903101035
06_20150903101121
06_20150903101136
06_20150903101139
06_20150903101213
06_20150903101529
2015.09.03の一連。

複合的住宅の隣には塀を境に、2階建てアパートがありました。
その姿の写真は撮れていませんが、解体後の奥に姿が見えている、
ベージュ色トタン外壁の、ごく一般的な2階建てアパート、
このタイプが建っていたと思います。

この撮影時は「いま解体終わっちゃったよ」と
住人の方が親切に教えてくれました。

と「まれ」の道路がなにかを言いたげです…





50_20151116093100_176-1600x1200
50_20151116093231_188-1600x1200
50_20151116093403_202-1600x1200
50_20151116093409_203-1600x1200
2015.11.16の様子です。

遺跡調査はとっくに終わって、埋められてしまいました。
「まれ」の舗装も削られて、泥の道になってしまいました。




さて、ほとんど隣接する建物の話になってしまいました。
お店の風景はもっと撮ってあったはずなので見つかり次第、
追加したいと思います。

お店に訪れた時、昔の話をしていただいたり、お母様の件と、
色々とお世話になりました。
稲廼家様、本当に沢山の思い出をありがとうございました。





3000_20161007143215
3000_20161007160904
2016.10.07

(追記2021.07.11)
食事風景が出てきましたので追加します。
この二枚しか撮ってありません。

もちろんオーダーは「カレー南蛮そば」。
2016年の10月なので、もう開発も大詰めになってきた頃です。




06_20150304140930-01
2015.03.04 (追加2021.07.28)
母屋







[記事管理ナンバー 20210624 / 20210711 / 20210728]